8年間引きこもっていたら統合失調症と診断されました。

統合失調症と診断された元引きこもりの覚え書き。

同人描いてます。

ブログを見返して思いますが、全く誰が読むのか、そもそも誰に宛てているのかもわからない意味不明なブログですね。一応「発狂」した当時の事を書くという名目はあったのですが、もう今更昔練り上げた面倒くさいだけの妄想の続きを書くのも大分かったるいです。というか単に飽きた。

 

今は同人を描いています。おねショタものになる予定です。いつごろ完成するかは分かりません。これで稼げることを証明してから作業所を辞めてやるという魂胆です。

 

現在服薬している薬はエビリファイ12mgです。断薬にはしったりもしましたが結局その度に鬱に見舞われてしまうので大人しく服薬を続行することにしています。服薬した方が間違いなくドーパミンが出ている気がします。そのせいか、最近になって色々と頭も働くようになったし、本もちょろちょろ読めるようになってきています。

 

子供について考えることが多くなりました。

思うのは、子供というものは一種の「死」を提示する存在だろう、ということです。わたしたちは子供に接する時相対的に自分を「大人」として、成長する存在として、言い換えれば死すべき存在として自覚せざるを得ない気がします。だから、例えば子供と作業所からの帰り道で出くわすと、ある種の胸を締め付けられるような情念に襲われてしまうのですが、これはたぶん自分という存在を死にゆくものとして知覚した時の憐憫に他ならないと思うのです。

子供がわたしに強いるのは、「大人であれ」という倫理的な命令のように思えます。その時わたしは否応なく一種のイニシエーションに参加させられます。イニシエーションとは死と再生のメカニズムを伴っているのだから、必然的にそれはわたしという人間の死に立ち会うことでもあると思います。

また、子供は言い換えれば「自分の居場所を奪う存在」のようにも思えます。対して、死をより直接的に表現している「死体」といった存在などは、むしろ居場所を巡る競争のライバルが減少したことを意味する、生存のエゴイズムを強化するのに資するような、言い換えれば「自分が生きていることを再確認させてくれる」都合の良い代物に過ぎないようにも思えるのです。

仏教などの死屍観想では無常を悟るための手段として朽ちていく死体のイメージが用いられるそうですが、こうしたものの他にも、むしろその反転物である生まれたばかりの「子供」の方にこそ一種の無常が、それも他人の死であるよりは自分の死であるような何かが宿るように思えます。子供がそこに存在するということは、自分にとって生存を保証してくれる保護的な「親」の役目を、自分が引き受けなければならないという状況を作り出すのです。

その時初めてわたしは、むしろ「自分の親に対する怨念」を、もっと言えばあらゆる罪悪感の根源をなす何かから解放されるように思われるのです。それは結構勇気がいることのようにも思えます、なぜかと言えば自分の親をどこかで自分の中から追放しなければならないのですから。それは、「居場所」を求めること、言い換えれば親なるものへの依存をどこかで捨てることです。たぶん。

 

で、更に思うのは、こうした「大人であることの責任感」を持った人間というのは、実に希少なのではないか、ということです。大人らしく、大人として、大人にふさわしく…というのは一種の抑圧でしょうが、それでも誰かが、誰かが大人にならなければみんな不幸になるだけのようにも思えるのです。一般的に、人の親ですら「親」ではない、と言いたくもなります。これには個人的な怨念がこもりすぎな気もしますが。

親とは恨まれてしかるべき存在だと思います。親こそが原初的なスケープゴートだとすると、結局この大人や親なるものへの一種の憧憬は、わたしにとっての妄想、つまり「キリストになった」ことの自負と地続きのようにも思えます。キリストこそが人類の罪を贖うべく十字架に掛けられた最後の生け贄であり、よって、キリストになるからには死ななければならない。そのこととあの妄想のさなかに経験された救世主になることの重圧というものは不可分なのでした。まあこれはどうでもいいや。

子供と出くわした時のあの言いがたい感情にはおそらく上のような機序が働いているのだと思われます、少なくとも自分の場合には、と限定しておかねばなりませんが。

 

まあ、それはともかく今はエロ同人を描かねばなりません。