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8年間引きこもっていたら統合失調症と診断されました。

統合失調症と診断された元引きこもりの覚え書き。

2016年3月4日(5)

以下の文章は創世自慰によって書かれたものです。修正を加えた上で公開します。

 ありとあらゆる事物に対する関係には二つの種類がありそれは「自分にそれがないと思うから(その幼女を)食べてやりたい」というものと
その事物が登場した事により自分の中に孕まされた何かを出産しその幼女の顔を見たいというもので
前者は"誰かに自分が手に入れたものを返すのはそれは自分がより多く他のものを手に入れるため"というものであるが
後者は"誰かに自分が手に入れたものを返すのはそのことによってまた別のものを生み出すため"というものだ。
だからそもそも
タナトスとは既に「タナトスのためのエロス」なのであり(サディズム=生の涜聖(生を遊びにし死を称える))
エロスとは既に「エロスのためのタナトス」なのであり(マゾヒズム=死の涜聖(死を遊びにし生を称える(たぶんそれは残虐なTVゲームを遊ぶ
かわいい幼女だ!俺は幼女だ!(を孕む幼女だ!(?)))

 

外宇宙より飛来する神のペニスが我が脳を強姦し身籠ったマリアたる私はキリストを(違う"キリストを身籠ったマリアを孕む"…これだ!つまりマリアがエロス(キリスト)を孕む
「エロスのためのタナトス」だったとするならキリスト教がのちにああなったのはキリストを「タナトスのためのエロス」と誤解したからだ!(人類は愚かだ)

 さて、タナトスだのエロス、サディズムマゾヒズムというこれまたよく理解してもいない概念が登場してきますが、これらの用語は恐縮ながらわたしの独自解釈によって用いられているものなので、フロイト精神分析のそれとはたぶん全く異なります。

また、キリストだのマリアという言葉も正統的なキリスト教のそれとは全く異なります。というかわたしはキリスト教についてそれほど理解していません…。なので、キリスト教徒の方がこのブログを読まれた場合大変不愉快かと思います。しかしそこは半端者の情けない勘違いとして見過ごしていただきたいですし、お借りした形象に失礼となれば代わりの言葉で表現したいと思います。

 

今となっては自分が何を考えていたのかいまいちよく思いだせません。繰り返し言うようにこれら創世自慰は自分用の覚え書きとしてしたためられたものなので、当時のわたしにとっては十分に理解できるものだったのでしょう。しかし何とか解説を試みたいところです。

 

ここで言うエロスとは一種の結合作用、一体化作用のことです。セックスが一体化であることを踏まえています。

対してタナトスは一種の分解作用、分離作用のことです。ある種の孤独などは常にタナトスに近いかと思います。

おそらくここまではフロイトの概念と同じだと思います。

しかしここで注意しておきたいのは、「エロスであるところのエロスのためのタナトス」においては、エロスもタナトスも「タナトスであるところのタナトスのためのエロス」におけるエロスとタナトスとは全く意味が違っているということです。それは後々説明していきたいです。

 

また、キリストとは「結合」の象徴です。対してマリアは「分解」の象徴です。しかしこのマリアにおける分解とは、「母なる分解」であり、例えば分解である死が個体をとりまく周辺の世界との一体化=結合(「母なる地球に還る」とよく言われるように)であるという意味での「分解」です。なのでそれは「死による結合」であるためエロスに近づいています。いわばエロス即タナトスであるところの「タナトス」であり、生命が生まれる礎であるような自然そのもの、といったニュアンスです。

 

つまり「キリストを身籠るマリアになる」とは、このエロス即タナトスの位置に身を置く、ということですが、これは前回の記事に書いた「私」と他者が同時に抹消されてしまうという事態と同じです。しかし、それは単なる自然との一体化ということを意味するのではありません。

同時に「キリストを身籠る」のであり、しかも出産したキリストもまたマリアつまりエロス即タナトスとして即座に分解され、またキリストを身籠るのです。なぜただ自然と一体化するのではなくキリストを身籠るのでしょうか。キリストとはここでは「結合」ですが、ここで言う「結合」とは何でしょうか。それは例えば人と人との交流というごく当たり前の観念と同じなのでしょうか。

 

良くわからなくなってきました。とりあえず続きは次回に。