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8年間引きこもっていたら統合失調症と診断されました。

統合失調症と診断された元引きこもりの覚え書き。

2016年3月4日(4)

前回引用した文章についての解説を試みます。というか、その文章自体がすでに一種の解説になっているように思えます。なのでこの記事ではその「解説」がどのような確信に基づいていたか、ということについて書きたいと思います。

 

まず補足しておきたいことがあります。例の「視界のモニタ化」という事態とほぼ同時に感得されたものに、「この宇宙は間違うことが出来ないように出来ている」、という強烈な確信があります。この確信は恐怖そのものでもあり、まるで「宇宙全体が自分にのしかかって来た」かのような重圧を感じました。

それは、この「創世自慰」が主に自分の人生、いわば自分がある程度は意識的・能動的・恣意的・偶然的に経験してきた諸々の出来事の集積を、すべて「貫通し逃げ去る」対象として、つまりある近似・類似した性質を共有するが故に同一の力の絶えざる現われとして捉えられるものとして一挙に説明を試みていることの原因であり結果でもある感覚だと思います。

なぜなら同一の力が常に反復されているがゆえにどのように行動をとってもその力を必然的に体現してしまうからです。そこにはその力からの逸脱というものがない、つまりエラーという観念は原理的に不可能になってしまっている。

そしてこの創世自慰では天皇や戦争や読み齧った本の内容など、言い換えれば自分に疎遠と思える外部のもの(権威的なものが多いですね)が説明の対象になったかと思えば身近な思い出が現れてきたりするのですが、それはこの二つのものもまた「貫通し逃げ去る」対象として無差別的に連結されているということです。例えば…

 (毛虫が嫌いになったのはあの調味料たるランドセルを背負ったレヴィアタンの口腔へ供せられる供物であることを確信した瞬間(つまり小学校に登校しはじめる初日だよく覚えている)に通学路の幼稚園に植えてある桜並木(おいおいおい)から天皇から自分への天罰として与えられた死…

 ここでは

調味料=ランドセル、小学校=レヴィアタン、桜並木=天皇、虫の落下=天罰、

虫=死、

という形で二つの物事が連結されています。

今となってはどういう理由でこれらを繋げて考え、なおかつそれが「まさしくそれそのもの」として、つまり桜並木が天皇そのものだと思えていたのかは分かりませんが(正確には桜並木と天皇を一挙に成立させる同一の力があると思えていた)、とにかくこの時私の中ではこれら相対立する存在を隔てる壁がなくなってしまったように思えていたのです。

だから、ここで他ならない「私」のこの唯一と思えていた人生の行動や経験が、疎遠な天皇やら神話的存在やら何か他の出来事との紛うことなき同一物と思えていた、ということは、この「私」が抹消されてしまったということであり、同時に他人も抹消されてしまった、ということだろうと思います。だから「今まで自分が知った人間達がもっていると思っていた、ある種の自律性などが完全に抹消されてしまったように感じ」たのです。

 ちなみに、この同一の力とは「キリストを孕むマリアからキリストを孕むマリアが出産される」、という形象として表されるものです。次回はこのあたりのことを詳しく書きたいと思います。