8年間引きこもっていたら統合失調症と診断されました。

統合失調症と診断された元引きこもりの覚え書き。

今日も何もしなかった。

漫画を描くッ、と決めていたはずなのですが、今日も全然描きませんでした泣。会社だと絵を描くのは苦ではないのですが、家に居るとどうしてもだらだらしてしまいます。

今日はちょろっと本を読んだ以外は基本的に何もしてません。恐ろしく不毛。休日は引きこもりニートだったころと全く変わらない状況に置かれてしまいます。まあ休むというのはそういうことかもしれませんが。

昨日は自撮りを晒してしまいました。そんなに不細工でもないので、「勿体ない」ので利用した方が良いと考えたのです。チヤホヤされるのもうれしいですしね。しかしTwitterからのアクセスはあるのですがはてなからのアクセスは少なかった…。もっと閲覧数を伸ばしたいところですが、まあ別に決して面白い内容ではないので有用な記事に比べると劣るのは仕方ないです。

Twitterでフォロワーの方にタロット占いをしてもらいました。最近はこういうものに興味があります。例えば日付など数字に何か意味深なものを見出したり、偶然の一致に気付いたり、など。ユングを読んだ方が良いのかも知れません。

 

こう言われました。

『過去に失敗して終わったものが、新しい形でスタートする。別の可能性が見えて、悩みから抜け出す兆しが出る年になる。心の中で、自分に対する不満からの葛藤が見えたから、今までの経験や失敗を生かしながら切磋琢磨していけば希望的観測が見える。』

 

「過去に失敗に終わったものが、新しい形でスタートする。」とは、漫画のことのような気もしますし、「キリストになる」というわたしの妄想的な野望のことを指す気もします。なんにせよ、どうとでも取れる言葉が占いの魅力でもありますから深く考えても仕方ないかもしれません。しかし、占いにわたしが求めるのはたぶんこの行動に指針を与えてくれるような一種の恣意性なのです。実際何が「運命」を知るうえで合理的かということは言葉の上では決定は不可能なのではないかと思うのです。

 

現実はいかようにも切り取ることが出来ると思います。占いの恣意的な言葉はそこにとりあえず形を与えてくれます。それが上述の無気力に上手く作用してくれるのではないかと思うのです。

 

ところで、相撲の稀勢の里がついに優勝したようです。若いころわたしは稀勢の里が優勝すれば自分自身も何か変わるだろう、と儚い期待を引きこもり生活の中で抱いたものですが、それが今ついに果たされたことはなかなか興味深いです。去年はわたしにとって激動の年でしたが、今年も何かが大きく変わる予感がします。それは「過去に失敗に終わったもの」の中から始まるのかも知れません。まあ当たるも八卦当たらぬも八卦、という所ですね、相撲だけに。

はい終わり。

2016年3月4日(7)

今回は再度「エロスのためのタナトス」、「キリストを身籠るマリア」について解説します。

sunsasun.hatenadiary.com

上の記事では孤独であることなどもタナトスに近い、と書きました。孤独であるということは、おそらく人間外の存在に接近するということであり、擬似的に死に近づくのではないかと思います。なのである種の「エロス即タナトス」という場に身を置くことになる。

 

ある種の、と限定している理由がここでは重要です。というのも、おそらくエロス即タナトスにも二種類あるからです。比喩的になってしまいますが、それは「受胎」の有無によって区別されます。つまり自分自身の内部に出産というメカニズムを有するか、それとも自分自身が母胎に還るか、という違いです。これをわたしは以下のように書きました。これも創世自慰の一部ですが、3月4日よりだいぶあとになって書かれたものです。

地球そのものになることと、もうひとつの地球そのものになることとの相違を明確に意識したときに初めてあの法悦が到来したということ…

 地球そのものになる、とは「単なる」エロス即タナトスとして自然と一体化することを意味します。

対してもうひとつの地球そのものになる、とは地球=自然の持つ母胎=出産のメカニズムを自分自身が持つことにより自分が元の地球と対峙する、ということを意味します。

対峙する、ということは、わたしが3月4日に感じた「宇宙に一人で漂う感覚」とおそらく等しいですし、そこから始まった創世自慰による無茶苦茶な過剰な意味付けはいわば「出産」なのです。いずれにせよ非常に比喩的にしか語れないのが泣き所ですが…。

 

そして、受胎すると同時に出産されるのがエロスであるところのキリストなのです。このキリストとは一体何なのかいまいち判然としないのですが、それは「エロスであるところのエロスのためのタナトス」として、上述の孤独という状況に置かれた分解されかかった個体を、逆説的に「エロス」へと反転させる何か、ということになるかと思います。ここでいう「エロス」は「エロス即タナトス」=マリアとしての、死と一体化した極限的なエロスということを意味するわけではありません。

 

その「エロス」とは、「貫通し逃げ去る」ものとしてあらゆる事物を流れている同一の力のことであり、それによって諸事物が統合されるという意味で結合そのものであるところの何か、ととりあえずは言っておきます。「貫通し逃げ去る」という性質を持つがゆえにそれは

キリストを孕むマリアが最もキリストなら孕んで生み続ける永久強姦永久出産こそが

 「永久強姦永久出産」、つまり外部からやってきたその何かに貫かれ(強姦)、それが出産としてまた抜け出ていく(出産)、というイメージとして考えられていて、しかもそれが永続することがいわば至福として考えられていたのです。

 

「貫通し逃げ去る」ということを、以前の記事でわたしは『言葉の音韻的、意味的関連を通してその言葉が指し示す事物を一緒くたにして、なおかつその連想の繋がるままに言葉を迸らせていく』ことだと書きました。しかしこれは創世自慰という名前の示す通り、ただ文章の上でだけなされていたわけではなく、言葉と事物の一致した実体的な経験として感得されていたことを再度強調しておかなければなりません。要は、実際に具体的現実としてそのように物事が感じ取られていたのです。

 

この感覚、どの事物もどれだけ距離や時間が隔たっていようとただ近似・類似しているだけで同一物になってしまうという事態はわたしにとっては恐るべき快感でした。いわば時間と空間を再創造しているかのようだったのです。

しかもそれが表面的な符合の一致でしかないということがなおさら快楽だったのです。

 

次回はこのあたりの感覚について具体的に掘り下げてみたいと思います。

2016年3月4日(6)

以下の文章もまた創世自慰によってこしらえられたものです。ほぼ一息に書いたので滅茶苦茶です。例によってすさまじい中二病臭がします。

 兄妹猫は外で育てられてある日テンテンが近所の猫にいじめられた(母親談)せいでいなくなってしまって(それは白と黒の猫でありブラックメタルであり自分であり母親は自分が小学校というレヴィアタンの捕食場に出発しようとする車のなかで突然この猫が自分の背中をよじ登って…いや庭に立ってた時に突然背中をよじ登って頭を引っかいたとかなんとかと笑いながら語っていた母親は天天がいじめられて死ぬことを願っていたのかもしれない罪悪感を感じていたのかもしれないから自分にしきりに話していたのかもしれないけど何年もあとに自分が基地外になったときに(つまり軍隊はその体罰と訓練と死の特訓を施すレヴィアタンである教官のかわいいイニシエーションの心棒たるストロー(吸い取るものと吐き出すペニスの違いはある(そしてそれはストローのためのペニスとペニスのためのストローに分けられる))でカラフルなジュースを飲み干す小学生が母親に微笑みかける時のお前の子供を全て喰らってやるという自分もまたレヴィアタンの子であることを告げる闘争開始の邪悪と虚無への絶対精神を宣言する時の世界崩壊に比べれば激怒する白鯨の憎悪はなぜ私を飲み込んでくれなくてなぜお前は私の娘であるかのように私に戦争即平和の虚無への絶対精神を宣言してくれずなぜ私に分裂を強いなぜ私の白くて丸い大きな全一死に黒き大便を突きつけなぜ私の消音パッドを被せられたスネアドラムの処女膜をスティックでくぐもった沈黙死全一(へ)の怒声を挙げながら破り続け(ようとして破れないことをあざ笑わせて)くれないのか(なぜならドラムスティックは摩耗しすり減りついには折れるが(厳密に言うとリムショットという白き全一を囲うスチールの枠=刀!に木で出来たスティック(大便でないならなにか?それが生命でないならなにか?つまりそれは切腹だ(そして口腔を囲う歯とは刀だ))を叩きつけることによって折れるのだがこの打ち方は軍隊由来のレヴィアタンの集団の威嚇の音であり死を捧げつつ死をもたらす全一死めがけて世界を覆う白き虚無への絶対精神の嘲笑を蔓延らせる黒死病たるゆえんは黒白なる弁証法の帰結であり日本の漫画が白黒なのは全一死を愛する人間に虹は見えぬからであり(じゃあ日本的なものに囲まれて生きていた自分が虹を見ている(ような気がするんだけど)のはなぜか?)ディオニュソスはその表象がワイン=葡萄であるのは葡萄の実というものが女に踏まれることによってワインになるものだからでキリストディオニュソスはマゾヒストであることを示すつまり葡萄の実はマゾヒストでありみんなそれを飲んで酩酊するときには笑い転げながら腹のなかでマゾヒストの子供を一匹飼うというのはそれが生命をもたらす小便ないし大便だからであり…中止その白き永遠の処女膜たる皇居口腔空虚(おいおい(これだれかすでに気づいてるかな?(そして皇の漢字を分解すると白い王=白鯨になる(そして虚の字の七は虹であり虹はキリスト教における神との契約の象徴にしてLGBTの象徴…(まてまて皇居を口腔に頬張り空虚として排出することが出産であるなら我々はみなキリストになりうるというよりキリストを孕むマリアが最もキリストなら孕んで生み続ける永久強姦永久出産こそが))))は無謬だからであり)という生への全身全霊の嫌悪を込めた自殺願望を吐露する氷結した氷の女王のありのままのわたしを信じる母と娘たる単一性への凍り付き静止した世界への白鯨への原初的願望を(西洋人がアメリカ大陸を食らい尽くそうとした時の罪の意識がメルヴィルに宿りあの鯨の幻想を抱かせた)に吐露する母親の娘への洗脳教育が生み出す工場の前を行進する登校中の小学生の鮮烈な通学帽の黄色が希望であり死である黒と血である赤の色に分けられた荷(可愛くておいしい調味料)を背負ったあの白き全一者の腸に捧げられる純潔の無垢なる分裂(お菓子)を貫き全ては静止するような気がしたときにカンちゃんのお尻が白い家の壁の角を曲がり消えた瞬間に思ったこれが最後の姿かも知れないとの気狂い沙汰の青空の祝聖を感じ

 前回の記事における「タナトスであるところのタナトスのためのエロス」について解説を試みたいと思います。

 

それは「ストローのためのペニス」として上の文章に登場するものであり、「吸い取るために吐き出すもの」、「全一者」そのものです。

つまりここでは体内に摂取するというイメージで表されるものが「タナトス」なのです。実際、死とは地球(自然)という胎内に回帰するという意味で「吸い取られる」ことなのではないかと思います。なので全一者とはまさに自然そのもの、正確には自然のうち「殺すために出産するもの」としてイメージされます。

補足としてもう一つの文章を引用します。

他人を自分のものだと思っているから他人の目を気にするのと
他人を他人だと思っているから他人の目を気にするのは全然違う(今気づいた)
そして前者の人間が皮肉な冷笑を浮かべて言い放つ「お前と俺は違う」という言葉は要約すると(私が要約してやろう)「いずれ私とお前の間の差異を統合し即自存在と化すことにより
この地球に黒死病を蔓延させてやろう」という闘争開始の宣言であり拷問者の鞭打ちにより雌豚と化した我々を食らうレヴィアタン(母親)の哄笑である。だから実はこの宣言は
「俺とお前は一緒じゃないか仲良くしようぜ」という宣言とほぼ等しいがその違いはそこに時間的な弁証法的発展のプロセスが介在しているかどうかだろう。
(日本人が同調圧力を批判する時その裏の意味にあるのはむしろ"なぜ私が発する同調圧力を拒否するのか?"あるいは"今は見逃してお前が独特の形状を有した美味しそうな家畜に成長するのを
待ってやる、そして未来時に私が育てたレヴィアタンの子孫達と最終戦争を戦おう(そして地球を滅ぼそう)"という宣言だとしたら?(つまり"あとで滅ぼすためにこそ異国の文化を尊重する"、
"あとで殺しあうためにこそ人間を自立させる"、または発展途上国を支援するのは"全ての国に核武装させることにより偶発的核戦争の危険をより高めさせる"、
文明とは地球というレヴィアタンの口腔の前に供せられる美味しい供物であり、未来時におけるラグナロクである死の祝祭戦争のための準備期間に過ぎない)

つまり「吸い取るために吐き出すもの」とは、この最終戦争に向けた文明の歩みに参入することであり、「破壊するためにこそ創造する」、ということなのです。そしてわたしにとってとりわけ重大だと思えていたことは、何も具体的な「最終戦争」を迎えるまでもなく、それが暗黙の目標として掲げられた何かに参入した時点で"既に"タナトスそのものを経験している、ということです。だから「タナトスのためのエロス」はエロスではなくタナトスそれ自体なのです。これは一種の短絡かもしれません。

そういう意味で、「全一者」とはある意味わたしたちが暮らす普通の世界そのものだと思います。あの創世自慰に耽っていた時のわたしには世界ははっきりとそのように見えていたのでした。

なにか悲観的な内容になってしまいました。今回は「タナトスのためのエロス」についてある程度解説したので、次回は「エロスのためのタナトス」、つまりキリスト(を孕むマリア)について再度考えてみたいと思います。

 

作業所行きたくない。

 作業所でアニメを作っているのですが、1秒間に20コマ動かせッと上司に命じられてしまいとても大変です。というか普通に無理です。最初は同僚の方とチームを組んで手分けして作る予定だったのですが、その方は基本的にわたしが描いた絵を編集してパラパラ漫画にするだけなので、実質的にはわたし一人で作っているようなものです。とても無理。こんな無理な指示を出してくる方が悪いのだからわたしは悪くないッ、というのが正直なところです。

実際、作業所でのわたしはどうも軽んじられているように思われます。というのもアニメを作るッとなった場合まず真っ先に重要なのが唯一絵が描けるわたしのはずだと思うのですが、しかしわたしの力量や意向への顧慮が全く見受けられない。これはどういうことなのか。影が薄すぎるにしても不遇という感覚を拭いきれません。

 

早く辞めたい、しかしそれには漫画を描かなければならない、しかし実際に書いているのはブログ、というのが泣き所です。正直、漫画への興味が最近になって薄れてしまいました。わたしの頭を占拠しているのはもっぱら他の記事にあるような妄想ばかりなのです。これではまずい。

やはり統合失調症な気がしてきますが、どうしてもそうは思えない部分もある…。妄想型の統合失調症なのか、パラノイアなのか…。幻聴・幻覚は一切経験していないというところがどうも引っかかる。まあ、統合失調症のことばかり考えるのもやめた方がいいかもしれませんね、医者にもそう言われました。

 

さて、最近読んでいるのはニーチェの『悦ばしき知識』です。今更ニーチェというのもなんとなく気恥ずかしいのですが読んでなかったんだから仕方ありません。

わたしの読書量は「ぜんっぜん」少ないです。これは本当です。なのでこのブログに書かれているようなエラソーなことを書く権利などあるのか、と常に疚しさを覚えてしまいます。が、まあ自分の言葉や概念で書く限りは下手な無教養っぷりを晒すことはないかと思います。なので極力他人の難しそうな言葉や概念は用いないことにしています。だからこそとっくの昔に誰かが考えたことをなんどもなぞり返すことになるかと思いますが、それはそれで新しい切り口を巻き込んでいくことが出来るのではないかと期待しています。

 

「とっくの昔に誰かが考えたことしか考えられない」という感覚は重要なものです。これはわたしが3月4日の経験をする以前にしきりに感じていたことでもあります。そのへんのことについては記事を改めて述べたいと思います。

 

今日のメタル。

youtu.be

オーストリアのバンドですね。ポストロックとブラックメタルの融合という今ではさほど珍しくない試みの中でも抜群にエモーショナルだと思います。サビの「Bury me…」で涙がチョチョ切れます。このアルバムは購入済みです。

 

今日はここまで。明日は病院に行きますので作業所は休みです。その間に漫画に着手したいものです。

2016年3月4日(5)

以下の文章は創世自慰によって書かれたものです。修正を加えた上で公開します。

 ありとあらゆる事物に対する関係には二つの種類がありそれは「自分にそれがないと思うから(その幼女を)食べてやりたい」というものと
その事物が登場した事により自分の中に孕まされた何かを出産しその幼女の顔を見たいというもので
前者は"誰かに自分が手に入れたものを返すのはそれは自分がより多く他のものを手に入れるため"というものであるが
後者は"誰かに自分が手に入れたものを返すのはそのことによってまた別のものを生み出すため"というものだ。
だからそもそも
タナトスとは既に「タナトスのためのエロス」なのであり(サディズム=生の涜聖(生を遊びにし死を称える))
エロスとは既に「エロスのためのタナトス」なのであり(マゾヒズム=死の涜聖(死を遊びにし生を称える(たぶんそれは残虐なTVゲームを遊ぶ
かわいい幼女だ!俺は幼女だ!(を孕む幼女だ!(?)))

 

外宇宙より飛来する神のペニスが我が脳を強姦し身籠ったマリアたる私はキリストを(違う"キリストを身籠ったマリアを孕む"…これだ!つまりマリアがエロス(キリスト)を孕む
「エロスのためのタナトス」だったとするならキリスト教がのちにああなったのはキリストを「タナトスのためのエロス」と誤解したからだ!(人類は愚かだ)

 さて、タナトスだのエロス、サディズムマゾヒズムというこれまたよく理解してもいない概念が登場してきますが、これらの用語は恐縮ながらわたしの独自解釈によって用いられているものなので、フロイト精神分析のそれとはたぶん全く異なります。

また、キリストだのマリアという言葉も正統的なキリスト教のそれとは全く異なります。というかわたしはキリスト教についてそれほど理解していません…。なので、キリスト教徒の方がこのブログを読まれた場合大変不愉快かと思います。しかしそこは半端者の情けない勘違いとして見過ごしていただきたいですし、お借りした形象に失礼となれば代わりの言葉で表現したいと思います。

 

今となっては自分が何を考えていたのかいまいちよく思いだせません。繰り返し言うようにこれら創世自慰は自分用の覚え書きとしてしたためられたものなので、当時のわたしにとっては十分に理解できるものだったのでしょう。しかし何とか解説を試みたいところです。

 

ここで言うエロスとは一種の結合作用、一体化作用のことです。セックスが一体化であることを踏まえています。

対してタナトスは一種の分解作用、分離作用のことです。ある種の孤独などは常にタナトスに近いかと思います。

おそらくここまではフロイトの概念と同じだと思います。

しかしここで注意しておきたいのは、「エロスであるところのエロスのためのタナトス」においては、エロスもタナトスも「タナトスであるところのタナトスのためのエロス」におけるエロスとタナトスとは全く意味が違っているということです。それは後々説明していきたいです。

 

また、キリストとは「結合」の象徴です。対してマリアは「分解」の象徴です。しかしこのマリアにおける分解とは、「母なる分解」であり、例えば分解である死が個体をとりまく周辺の世界との一体化=結合(「母なる地球に還る」とよく言われるように)であるという意味での「分解」です。なのでそれは「死による結合」であるためエロスに近づいています。いわばエロス即タナトスであるところの「タナトス」であり、生命が生まれる礎であるような自然そのもの、といったニュアンスです。

 

つまり「キリストを身籠るマリアになる」とは、このエロス即タナトスの位置に身を置く、ということですが、これは前回の記事に書いた「私」と他者が同時に抹消されてしまうという事態と同じです。しかし、それは単なる自然との一体化ということを意味するのではありません。

同時に「キリストを身籠る」のであり、しかも出産したキリストもまたマリアつまりエロス即タナトスとして即座に分解され、またキリストを身籠るのです。なぜただ自然と一体化するのではなくキリストを身籠るのでしょうか。キリストとはここでは「結合」ですが、ここで言う「結合」とは何でしょうか。それは例えば人と人との交流というごく当たり前の観念と同じなのでしょうか。

 

良くわからなくなってきました。とりあえず続きは次回に。

 

最近の状況について。

なんだか危ない奴だと思われそうなので普通の日記も書きます。

 

今日も作業所へ行ってきました。作業所では絵を描いています。来たばかりの頃はチラシ制作などを任されていましたが、最近では簡単なアニメを作らされています。

ここは一応一般就労を目指す場なのですが、わたしの現在の目標は「漫画を描いて賞を獲る」ことです。そしてあわよくばアシスタントとして食っていきたい、などと考えてもいます。まあ漫画は全然描けていないのですが…。

 

最近ではもう一度あの経験、「神」についてのあの経験を味わいたいと常に考えています。なにせあの高揚感(躁状態だったのかもしれません)は一度味わってしまえば決して忘れられないものですから。

実際のところ、あの3月4日の経験が統合失調症の症状だったのかどうかはあまりよくわかりません。たしかにある種の妄想の爆発は凄まじかったように思うのですが、典型的な陽性症状というわけではなく、異常に頭が冴えていただけだったようにも思えるのです。その後6月頃により典型的な統合失調症の症状を経験するのですが、その時と比べて3月4日のほうが体験の熱量は高かった。一体これが何だったのかいまいちよくわかりません。

 

まあそれはともかく、これからは聴いた音楽(ほぼヘヴィメタルばかりですが)や雑多な考え事についても書き記していくつもりです。まず今日聴いた音楽。主に私はYoutubeやbandcampで音楽を探しています。もちろん全部タダ聴きしているわけではなく、気に入ったものはちゃんと買っています。

prosternatur.bandcamp.com

冒頭から始まる神秘的で幻想的なトレモロリフがとても美しいですね。不安を煽り立てるような不協和音のアルペジオを挟みつつブラストビートと共に疾走し、最後に再び冒頭の旋律を繰り返し終わります。

Zoroastrianismという曲名も面白いですね。宗教的でオカルティックな歌詞内容を想像させます。まあ何言ってるのかさっぱりわからないんですが。

今日は作業所で絵を描きながらこれを聴いていました。

 

さて、今日は精神病院の閉鎖病棟にいたころのことを少し思いだしていました。石岡市にある病院です。病室の窓から望める木立の奥へと祖父がゆっくりと歩いていく映像を想像していたことを覚えています。祖父の傍らにはわたしが当時考えていた漫画のキャラが同伴していました。去年の6月ごろのことです。ひぐらしが鳴いていました。わたしはそこで軽度の統合失調症と医者から言われたのですが、このブログに書いてあるような内容は一切誰にも話していないので、これを読んでどういう判断が下されるのかは分かりません。統合失調症ではなくパラノイアの一種と思われるかもしれません。

 

今日はこれで終わりにします。明日も作業所です。行きたくないなァ~。

2016年3月4日(4)

前回引用した文章についての解説を試みます。というか、その文章自体がすでに一種の解説になっているように思えます。なのでこの記事ではその「解説」がどのような確信に基づいていたか、ということについて書きたいと思います。

 

まず補足しておきたいことがあります。例の「視界のモニタ化」という事態とほぼ同時に感得されたものに、「この宇宙は間違うことが出来ないように出来ている」、という強烈な確信があります。この確信は恐怖そのものでもあり、まるで「宇宙全体が自分にのしかかって来た」かのような重圧を感じました。

それは、この「創世自慰」が主に自分の人生、いわば自分がある程度は意識的・能動的・恣意的・偶然的に経験してきた諸々の出来事の集積を、すべて「貫通し逃げ去る」対象として、つまりある近似・類似した性質を共有するが故に同一の力の絶えざる現われとして捉えられるものとして一挙に説明を試みていることの原因であり結果でもある感覚だと思います。

なぜなら同一の力が常に反復されているがゆえにどのように行動をとってもその力を必然的に体現してしまうからです。そこにはその力からの逸脱というものがない、つまりエラーという観念は原理的に不可能になってしまっている。

そしてこの創世自慰では天皇や戦争や読み齧った本の内容など、言い換えれば自分に疎遠と思える外部のもの(権威的なものが多いですね)が説明の対象になったかと思えば身近な思い出が現れてきたりするのですが、それはこの二つのものもまた「貫通し逃げ去る」対象として無差別的に連結されているということです。例えば…

 (毛虫が嫌いになったのはあの調味料たるランドセルを背負ったレヴィアタンの口腔へ供せられる供物であることを確信した瞬間(つまり小学校に登校しはじめる初日だよく覚えている)に通学路の幼稚園に植えてある桜並木(おいおいおい)から天皇から自分への天罰として与えられた死…

 ここでは

調味料=ランドセル、小学校=レヴィアタン、桜並木=天皇、虫の落下=天罰、

虫=死、

という形で二つの物事が連結されています。

今となってはどういう理由でこれらを繋げて考え、なおかつそれが「まさしくそれそのもの」として、つまり桜並木が天皇そのものだと思えていたのかは分かりませんが(正確には桜並木と天皇を一挙に成立させる同一の力があると思えていた)、とにかくこの時私の中ではこれら相対立する存在を隔てる壁がなくなってしまったように思えていたのです。

だから、ここで他ならない「私」のこの唯一と思えていた人生の行動や経験が、疎遠な天皇やら神話的存在やら何か他の出来事との紛うことなき同一物と思えていた、ということは、この「私」が抹消されてしまったということであり、同時に他人も抹消されてしまった、ということだろうと思います。だから「今まで自分が知った人間達がもっていると思っていた、ある種の自律性などが完全に抹消されてしまったように感じ」たのです。

 ちなみに、この同一の力とは「キリストを孕むマリアからキリストを孕むマリアが出産される」、という形象として表されるものです。次回はこのあたりのことを詳しく書きたいと思います。